メッセージ:2015年4月〜6月〜  

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新日本フィルハーモニー交響楽団
サントリーホール・シリーズ/第542回定期演奏会(2015/6/14)
によせて
−飯守泰次郎−

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飯守泰次郎です。6月14日の日曜日は、新日本フィルハーモニー交響楽団のサントリーホール・シリーズ、第542回定期演奏会を指揮いたします。

コンサートの1曲目は、日本を代表する素晴らしいオーボエ奏者で、新日フィルの首席を長年務める古部賢一さんのソロで、バッハのオーボエ協奏曲ヘ長調BWV1053を演奏します。
この作品は、チェンバロ協奏曲第2番(ホ長調)としても知られていますが、もとはオーボエ協奏曲であったとして、オーボエでも演奏される曲です。古部さん自身が所属される新日フィルとの共演ということで、とても息の合った演奏をお楽しみいただけると思います。

さて、コンサートの2曲目はR.シュトラウスの晩年の作品「メタモルフォーゼン」です。
第2次世界大戦末期の1945年に作曲され、R.シュトラウス自身によって「23の独奏弦楽器のための習作」という副題が付けられています。
いくつもの、いわば「示導動機」というべきテーマが、フーガのように複雑に絡み合い、半音が多用され、転調を重ねて展開されていきます。これらの「示導動機」は、ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」の第2楽章に由来するもの、ワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』のマルケ王の嘆きの場面に由来するものなどがあり、まさに、精神的にも社会的にも追い詰められていた作曲当時のR.シュトラウスの悲痛な叫びのような作品なのです。

「メタモルフォーゼン」の後、休憩をはさんでコンサートの後半は、ベートーヴェンの交響曲第3番変ホ長調「英雄」です。

ベートーヴェンは、「英雄」第1楽章の冒頭で、イントロダクションもなく、たった2つの衝撃的な和音で、音楽史に例を見ない破格の改革を成し遂げました。それまでのハイドン、モーツァルトの古典派の交響曲の歴史、そして自分自身の交響曲第1番と第2番をも、創造的に破壊したのです。
「英雄」を構成する様々な音型(フィグア)のどれひとつをとっても、いったいどのような発想で突然生み出されたのか、まったく想像さえできません。これは、おそらく歴史に突然現れた英雄・ナポレオンの行動と、ベートーヴェンの発想が結びついた為なのでしょうか。この革命的な発想は、「英雄」のスコアに向き合うたびに必ず新たに気づかされることであり、それはこれからも決して終わることがないのだ、といっそう強く思うばかりです。

新日フィルは、長年にわたり定期的にご一緒しているオーケストラです。今回のリハーサルも、いつもながら非常に積極的で集中力に満ちており、しかも練習を重ねるにつれてますます音楽が発展し充実していくので、私もいっそう大きな期待と喜びを感じております。もともと非常に高い技術と機能性を備えたオーケストラなので、奏者ひとりひとりの心と体の中から音楽的な感興が有機的に湧き上がる状態を求めて、リハーサルを重ねています。

今回の定期演奏会は3曲とも非常にそれぞれに内容の濃いプログラムだけに、本番が大変楽しみです。皆様のお越しをサントリーホールでお待ちしております。
 

飯守泰次郎


 

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東京文化会館《響の森》Vol.36
ドイツ・ロマンの森〜ワーグナー&ブラームス」
(2015/6/3)によせて
−飯守泰次郎−

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飯守泰次郎です。6/3は、東京文化会館“響の森”Vol.36「ドイツ・ロマンの森〜ワーグナー&ブラームス」と題されたコンサートを指揮いたします。オーケストラは東京都交響楽団です。

コンサートのタイトル通り、プログラムの前半はワーグナーの作品で、歌劇『タンホイザー』序曲と、楽劇『トリスタンとイゾルデ』より“前奏曲と愛の死”、休憩を挟んで後半はブラームスの交響曲第4番ホ短調です。

ワーグナーとブラームスは、ほぼ同じ後期ロマン派の時代に生きた、対照的な作曲家でした。

ブラームスは、後期ロマン派といっても、それ以前の時代である古典派の方を向いていた人です。音楽の内容においても、古典的な形式とバランスをきわめて重んじ、非常に厳格です。
交響曲第4番は彼の最後の交響曲であり、第1楽章、第2楽章では彼の一生のすべてを振り返るような枯淡の境地を感じさせます。一転して第3楽章は、エネルギッシュなハ長調が爆発し、これもブラームスの他の作品にも顔を出している彼らしい一面です。
そして第4楽章は何と、「パッサカリア」という、古典派よりさらに昔のバロック時代の形式で作曲されています。8小節単位で同じ和音の進行が30回以上繰り返され、その厳格な形式の中で、円熟の極みにあるブラームスの作曲技法の限りを尽くした驚くべき多彩な変奏が繰り広げられます。彼は、人生最後の交響曲の最終楽章で、パッサカリアというとても古い形式を用いたのです。

さて、対照的にワーグナーは、革新的な方向に突き進んだ作曲家です。交響曲は若い頃に1曲書いただけで、歌劇、あるいは楽劇という劇音楽に集中して巨大な作品群を残しました。
音楽の内容は極めて劇的で、オーケストラの様々な技法が駆使され、人の心を操作するような力を持ち、それが現在にも続くワーグナー派とアンチ・ワーグナー派の対立を生んだほどです。

歌劇『タンホイザー』は、中世の騎士の社会を舞台に、精神性・宗教性と、自由で生身の人間性とのぶつかり合いが描かれます。
序曲は、巡礼の行列が通り過ぎていく場面から始まり、官能的な悦びの世界が色彩的に表現されて最高潮に達すると、再び巡礼の行列が戻ってきます。この「巡礼の合唱」のテーマは、一度聴いたら忘れられないのではないでしょうか。

楽劇『トリスタンとイゾルデ』は、男女の愛についての他に類を見ない大きな問題提起であり、愛をめぐる思想、哲学、世界観を問う作品です。
前奏曲の冒頭で提示される有名な“トリスタン和音”、半音の駆使、そして示導動機と無限旋律によって、音楽の歴史を大きく変えるきっかけとなりました。のみならず、人間の性愛の問題を徹底的かつ哲学的にここまで掘り下げたことによって、音楽の世界を超えて文学、絵画など、あらゆる分野に大きな影響を与えたのです。

東京都交響楽団との共演は久しぶりですが、オーケストラとしての高い機能性と表現意欲を共に備えていて、指揮者の意図するところを十分に表現する余裕があり、どんな変化にも対応できることが素晴らしいと思います。常日頃からマーラーをはじめとする大曲に継続的に取り組んでいるだけあって、表現の幅広さと深さを感じさせるオーケストラです。

東京文化会館は、オペラとシンフォニー・コンサートの両方ができる本格的な音楽ホールとして1961年に開館し、記録によれば私は、アシスタント時代も含めればここで130回以上演奏しているそうです。私の音楽家としてのキャリアは、まさに東京文化会館によって育てられたともいえます。
信頼のおける素晴らしい音響を持つホールであり、私も大ホールのステージに立つと、ここで音楽できることに対して喜びが湧いてきます。自分の中に音楽的な積極性がみなぎり、心が燃え立つような感覚になるのです。本番が大変楽しみです。
東京文化会館で、皆様のお越しを心からお待ちしております。
 

飯守泰次郎


 

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ニューフィルハーモニーオーケストラ千葉 財団創立30周年記念事業
第97回定期演奏会“30年の時を奏でるブラームス”(5/31)に向けて
−飯守泰次郎−

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リハーサルの様子
リハーサルの様子
飯守泰次郎です。5/31はニューフィルハーモニーオーケストラ千葉の財団創立30周年記念の定期演奏会を指揮いたします。

ニューフィルハーモニーオーケストラ千葉と前回ご一緒したのは2012年の秋でした。シューベルトの「未完成」と「グレート」というプログラムで、とても良いコンサートができたことが心に残っております。

今回は創立30周年記念ということで、第1回演奏会と同じブラームスの交響曲第1番を、30年を経て改めてプログラムのメインに据えて取り上げる、という意欲に溢れたプログラミングです。コンサートの前半には、ワーグナーの『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第1幕への前奏曲と、ピアノ独奏に津田裕也さんをお迎えしてベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番ト長調をお聴きいただきます。

ピアノ独奏の津田裕也さんと打ち合わせ
ピアノ独奏の津田裕也さんと打ち合わせ
ブラームスの交響曲第1番は押しも押されぬ名曲であり、オーケストラの奏者であれば弾き慣れている人も多いだけにむしろ、ブラームスの音楽が本来持っている様々な要素にふさわしい、それぞれの箇所で求められる響きや音の発想を豊かに持って演奏することが難しい面もあります。しかし、この交響曲の作曲に20年以上取り組んでいたブラームスの内面では、まさに絶体絶命の一大事ともいえる凄絶な要素も含んだ、様々なイメージが沸き立っていたはずなのです。作曲家が持っていたイメージにどこまで迫れるか、私たちに求められているのはそのことであると考えて、リハーサルを重ねています。

ワーグナーの『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第1幕の前奏曲も、オーケストラ・コンサートでもよく演奏される作品ですが、この5時間にわたる楽劇のすべてが盛り込まれている前奏曲でもあります。堂々たるマイスターたちの行進で始まりますが、若い騎士ワルターと親方の娘エーファの愛の場面や、夜の公園で二人が駆け落ちの相談をしているのをザックスが見守っている場面、親方の中でも嘲笑される役回りのベックメッサーの場面など、様々なイメージが伝わるように演奏することが大切なのです。

本番の様子 本番の様子

ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番ト長調は、ト長調のピアノ独奏で始まりますが、それを受けるオーケストラは何とロ長調、という、これはまさに天才の発想というほかありません。
ピアノ協奏曲の第3番ハ短調と、第5番の変ホ長調「皇帝」という大曲の間で、なぜこのような内面的な作品を書くことが可能だったのだろうと思います。
ベートーヴェンには、他の作品にも時折みられることですが、この作品でも、何か天上から崇高な光が射してくるようなところがあるのです。
大変素晴らしい、全く特別な作品です。

ニューフィルハーモニーオーケストラ千葉は、とても新鮮な気持ちで音楽をしていて、しかも楽しそうに演奏するオーケストラです。リハーサルを重ねるうちにどんどん成果が上がっていくので、私も大きな喜びを感じています。今日はおそらく素晴らしいコンサートになると思います。 習志野文化ホールで、皆様のお越しをお待ちしています。

コンサート本番前半終了後にピアノ独奏の津田裕也さんと
コンサート本番前半終了後にピアノ独奏の津田裕也さんと
 

飯守泰次郎


 

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東京シティ・フィル ブルックナー交響曲ツィクルス第4回・交響曲第8番
〜第289回定期演奏会(2015/5/9)にむけて(下)

−飯守泰次郎−

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〔(中)から続く〕

―――交響曲第8番で、ワーグナーの影響が特に感じられる箇所を挙げていただけますか。

I:第1楽章では、ワーグナーが『トリスタンとイゾルデ』でついに到達した諦念、つまりショーペンハウアー的な哲学が満ち満ちています。これはブルックナーが意図的に表現したわけではなく、ただ音楽にそれが満ち満ちているのです。

第2楽章のスケルツォでは、『トリスタン』に近い転調、ロマンティックなハープの効果などのワーグナー的な音楽の魔力、そして「愛」を象徴するホ長調という調性が、ドイツ民族の血に昔から流れている野性に溢れた舞踏のリズムとあいまって、非常な魅力となっています。

そして何といっても第3楽章の冒頭のシンコペーションと、変ニ長調(嬰ハ長調)という調性、これはもう『トリスタン』第2幕の有名な愛の二重唱「夜のとばりよ、降りてこい」という部分と全く同じといえるくらい、似通っています。
この交響曲は『トリスタン』初演(1865)より後に書かれましたから、もしかしたら…とも思いますが、そもそもブルックナーは真似をするような人ではないのです。

―――彼の体の中に、『トリスタン』が深く入り込んでしまったのでしょうか。

I:傾倒したワーグナーの響きが不可分に入りこんでいることはあるでしょう。
他にも、ワーグナーの作品に非常によく似た部分があります。たとえば第1楽章の第2主題で、弦楽器が半音で上昇していくのも、音型は違いますがロマンティックな歌い方といい、『トリスタン』第2幕によく似ています。
第4楽章冒頭の堂々とした金管の和音も、明らかにワーグナーの金管の使い方ですね。

第8番は完成した最後の成熟した交響曲であるとともに、ワーグナーの影響も最も濃厚に表れているのです。

―――今回はノヴァーク版第2稿(1890年稿)による演奏となります。

I:彼の交響曲にはいつも改訂の問題があり、第7番までの他の交響曲のほとんどは後で何らかの大小の改訂がなされていますが、第8番については、初稿の段階から本当に彼自身の成熟した後期の様式で作曲されています。第2稿でコンパクトに改訂されていますが、その差異は決定的ではない、と私は考えています。アダージョの異稿も検討した結果、やはり今回は第2稿を採用することにいたしました。

たしかに、作曲家によって、あるいは作品によって、原典版にしかない光るものがある場合もありますし、昨今は原典版が重視される風潮があります。特に第8番については色々な人の意見が分かれるところではあります。

ブルックナーの演奏解釈で常に問題となるのは、終楽章のテンポの取り方が指揮者によってかなり異なることです。これは明らかに、ブルックナーがいつも終楽章の作曲で苦労したためだと思います。

―――全曲をどう終わらせるか、ということに苦心したのでしょうか。

I:その通りです。長大な交響曲の最終楽章をどう結論づけるか、という難しさです。先ほども述べたとおり、ブルックナーは、理念や理屈、哲学、たとえば“救済”あるいは“終末思想”といった全曲を統一する具体的な理念があって作曲しているわけではないので、第1、2、3楽章まで非常にうまくまとまっても、最終楽章はいつも苦労したのでしょう。

―――ブルックナーを聴き慣れないと、「そろそろ終わりかな」と思って時計を見るとまだ半分で、また最初に戻って始まったように感じることもあります。

I:ブルックナーに関しては、最終楽章に限らず他の楽章でも同じような印象を受ける場合があるでしょう。特にフィナーレのテンポにおいて、指揮者による違いが顕著に表れるのです。抽象的な純粋音楽だけに、深く掘り下げれば掘り下げるほど、人によって解釈が異なってくる、それがブルックナーの魅力でもあるのです。私も、今回も改めて、知恵を絞って、というよりは感覚を大切にして、ブルックナーの心を掘り下げて臨みます。

ブルックナーを演奏するには、もちろんオーケストラのバランス、テンポの設定、いろいろなことが重要ですが、私が一番大切にしているのは、彼の人格、人柄に踏み込んで作品を分析し、解釈することです。
たとえばブルックナー休止、ブルックナー・リズム、ブルックナー・クレッシェンド、などといわれる特徴には、オルガニストとしての彼の性格が強く表れており、とても重要です。

一方で、先ほども出たように非常にナイーヴで本能的な、いわば変人だったということも大切にするべきだと考えています。
彼は、水玉模様の洋服を着ている人がいると、駆け寄ってひざまずいて模様の数を数え始めたそうで、数えたい、という衝動が止められなかったのです。

また、人間はどこか残忍性をもっているものですが、ウィーンの歌劇場が大火事になって逃げきれなかった人々の焼死体の山を真っ先に見に行ったり、ベートーヴェンが改葬されると聞いて駆け付けたとか骸骨にほおずりしたとか、殺人事件の裁判の傍聴に興味を示したとか、死に対する興味を示す逸話も多くあります。
これも、マーラーのように心の中で死に対する恐怖や予感があるというような心理的なものでなくて、非常に単純で動物的な興味なのです。だからといって彼の人間性が酷かったとか、品が悪かったということではありません。
まだ死の怖さも知らない、礼儀も知らない子供がふっと興味を持つことがありますが、ブルックナーの場合は大人になってもそこは全然成長しなかったということです。

これは一例で、そのような彼の人柄、人格の中に隠されたものが多くあって、やはりそれが素晴らしい創造とどこかで結びついている、ということです。
彼は周囲にとっても愛すべき人間で、おそらく非常に扱いに困ったに違いありませんが、だんだん評価が高まって皇帝の前など正式な場に出るときなど、失敗しないように礼儀や言葉遣いを教えて、それでも彼はやはりうまく振る舞えませんでした。
こうしたさまざまな要素が組み合わさった彼の中で、このような純粋な音楽が出来上がったことは、奇跡というほかありません。

彼は思慮深くはなかったけれども、創造の根底、無意識の奥底に、素晴らしい、本能的で人間的な発想が息づいていたのです。この彼の人柄、彼の心を、彼の曲を演奏するときに私はいつも失わないようにしたい、一番大切にしたい、と考えています。

―――最後に、公演を心待ちにされている、シティ・フィル・ファン、ブルックナー・ファンの皆様にメッセージをお願いいたします。

I:東京シティ・フィルと私は、ワーグナーの作品を継続的に全曲上演し、一方でブルックナーの交響曲を長年かけて繰り返し演奏してきました。 それが、シティ・フィルにとっても私にとっても、そしておそらく聴衆の皆さまにとっても、良い積み重ねとなっていると思います。
久しぶりに皆様にお目にかかれること、しかもブルックナーの中で一番長く、ブルックナー的でありながらワーグナー的なドラマティックな交響曲である第8番でお目にかかれることを、非常に嬉しく思います。ブルックナーの経験を共に長年積み重ねて成熟してきている私たちの今回の演奏を、皆様に堪能していただけるよう願っております。

〔完〕
 
(聞き手:東京シティ・フィル事務局)


 

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東京シティ・フィル ブルックナー交響曲ツィクルス第4回・交響曲第8番
〜第289回定期演奏会(2015/5/9)にむけて(中)

−飯守泰次郎−

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〔(上)から続く〕

―――交響曲第8番については、第2楽章は「ドイツの野人」、第4楽章は「オルミュッツにおける皇帝陛下とツァーリの会見の様子」など、ブルックナーによる説明が残っています。
先生のおっしゃる深い宗教性や精神性と、こうした言葉とは結びつかない感じもしますが、彼はこうした説明にどのような意味を込めていたのでしょうか?

I:この曲が聴き手によって非常に異なる印象を与えることは、歴史的に実にさまざまに解釈されてきたことからも証明されています。
それは、この曲が非常にロマン的(内面的)で抽象的で、まさに純粋音楽であることの証明でもあります。

第2楽章(スケルツォ)についての「ドイツの野人」とは、たくましいドイツの農夫、といった意味合いで、たしかにブルックナー自身の言葉です。この第8番に限らず、純粋で抽象的で宗教的な彼の交響曲においてスケルツォは例外的な楽章です。
彼は、信仰深く純粋でナイーヴな人格をそなえていましたが、もうひとつ、彼個人の個性を超えたドイツ民族としてのありのままの血筋、「聖なる野人」とも呼ばれる別の側面を持っており、それがスケルツォ楽章に色濃く表れているのです。
ゲルマン民族的な舞踏音楽のリズムがそのまま出て、他の楽章に対して大きなコントラストを成していることが、ブルックナーの交響曲の特別な魅力になっているのです。

―――第4楽章についての、「皇帝とツァーリの面会のファンファーレ」とか「コサックの騎行」などの説明は、いかがでしょうか。

I:堂々たる、あまりに偉大な第4楽章の冒頭に対して似つかわしくないようですが、これも彼自身の言葉なのです。周囲や後世はこの楽章を「死と苦悩を克服しようとする闘い」などと解釈しているにもかかわらず、彼自身の言葉では“ファンファーレ”や“行進曲”になってしまうのです。
実際には、単なるファンファーレや行進曲をはるかに超えた、もっと偉大な力が込められている音楽です。 おそらく、彼は人に訊かれてこのように答えたのでしょう。つまり彼は、思慮深い人間ではないのです。

―――第3楽章のアダージョは、どこからあの美しさが来ているのか、と思うほどですが…。

I:後期ロマン派的な深い内面性を湛えた、この上なく深刻で美しい音楽ですが、彼は、この楽章の発想がどのように得られたのか、と訊かれて「若い娘の目をじっと深く覗き込んでいるのです」と答えたそうです(笑)。

若い娘のことばかり考えていた、というのは彼のありのままの姿です。
たとえば、彼は旅行嫌いで、オーストリアであの時代から何年も続いていた音楽祭に行くのも渋るほどでしたが、ようやく身支度を整えて音楽祭に出かけても、旅行について書き残された文には泊まった旅館の娘や、外で見かけた農家の娘のことしか書かれていない。音楽祭どころか風景や自然にも一切触れていない。
何しろ、彼が遺した本は5冊だけ、聖書とナポレオンの伝記と、旅行の本と…という非常に単純な人間だったのです。

にもかかわらず、このアダージョのような、人の心を根底からゆさぶる深遠な音楽を書いたのです。
彼自身が、自分が書いた感動的な音楽の意味を理解してはいなかった、ということになるのでしょう。

興味深いことに、モーツァルトにも少し共通するところがあり、冗談を言って笑ったり飲食しながらサラサラと作曲して崇高な音楽を残し、その音楽の深みにモーツァルト自身が本当には気づいていなかったのかもしれない、と感じることがあります。
特に、『ドン・ジョヴァンニ』の騎士長の場面の「観念しろ」という、もはや無調のようなあの音楽の想像を超えた深みには、モーツァルト自身が気づいていなかったのではないか、と私はいつも思うのです。

モーツァルトの場合は神から与えられた天才ですが、ブルックナーの場合は、ワーグナーの『パルジファル』に出てくる「純粋無垢な愚か者」という言葉が近いように思われます。
あるいはシェークスピアの「十二夜」に「愚かな知恵者になるよりも利口な馬鹿者になれ」という、含みのある良い言葉があり、ブルックナーによくあてはまると思います。

彼は、右足と左足の靴が違っていても気づかなかったり、妙な身なりのまま散歩に出かけて 近所の見物になっているのに「自分も少しは注目される存在になった」と気を良くするような人でした。

あるいは、若い人たちに音楽のレッスンをするときに、「ド(根音)は“アダム”。ソ(属音)は“エヴァ”。彼らが子供を作る、それがミ(3度)で、和音が完璧になる、これが“家族”」といって教えたそうです。
「ドミソに対してドミソシの和音、このシ(7度)は“親戚”。そして増4度(ドファ#ラ)のファ#、これは“急に訪ねてきた親戚のおばさん”」(笑)だそうです。増4度は転調に使われる「悪魔の音程」といわれるもので、“ちょっと困るなあ…”という感じで、たしかに私にはとてもよくわかります。
このような比喩で音楽をとらえて、そのように教えていた。そんな彼の中に、自分も気づいていない非常に深い叡智があるのです。

―――“親戚のおばさん”ですか…。このような感覚で、あの偉大な交響曲を書いたのでしょうか。

I:大変意外ではありますが、おそらくそうだと思います。理屈ではないのでしょう。
たとえばワーグナーなら、音程の感覚にしても、上行、あるいは下行、と有機的に考え抜いて作り上げ、その結果、彼の音楽は人の心を操作するほどの力を持ちます。響き、表現、音程、調性、すべてが理論にかなっていて、人間の心を動かす宇宙の普遍的な法則を感知して作曲しています。つまりワーグナーは確信犯です。

しかし、同じ響きを使いながらブルックナーは正反対で、ごくナイーヴな感覚のまま作曲していたと思います。

第8番の第2楽章を作曲している時、彼は自分の部屋に入るのに階段を三段くらい飛ばしながら駆け上がって、書きかけの五線紙に覆いを掛け、「風邪をひいてしまうからね。おやすみ、ドイツの野人」と語りかけていたそうです。 つまり、スコアに書かれている「ドイツの野人」がまるで生きた人間であるかのように感じていたのです。
スケルツォの中間部(トリオ)についても、「野人が眠ろうとして田舎を夢見るが、どうしても自分の歌が見つからない、激しく寝がえりを打って…」という説明をしたようで、実際のところそういう感覚で書いているのでしょう。
あの偉大な第3楽章のアダージョが、若い可愛い娘の瞳、というのも、彼なりに本当だったのかもしれません。

―――第4楽章のフィナーレで、すべてのテーマが戻って来て組み合わされる壮大な部分を「『タンホイザー』第2幕だ」と言ったそうですが、それも深い意味はなく、響きだけでとらえているのでしょうか?

I:『タンホイザー』のストーリー性や宗教性との関連、といった深い考えによるものではないと思いますね。

先ほど出た「ドイツの野人」という言葉は、ブルックナーの血の中にあるものを無意識に察知したものとして理解できますし、第4楽章の「コサック」や「皇帝の面会」も、あの音楽に対してあながち外れてはいない面もありますが、アダージョが“若い娘の瞳”となると…。

結局、彼はただ祈るような気持ちで書いていて、それ以上は彼にはまったく説明がつかないのです。どんな偉大な発想で書いたのかと周囲に問われ、そもそも意識して書いたわけではないので後で言葉を捻り出しているふしがあり、言葉通りに信用することはできないように思います。
彼は非常にナイーヴに作曲しているのだけれども、その音楽の内容は彼自身が気づいていないくらい深い、としかいいようがありません。

第8番は全体の調性はハ短調で「悲愴交響曲」とも呼ばれ、最後はハ長調で終わりますが、ベートーヴェン的な“勝利”ではありません。
この最後の部分は非常に明るく肯定的な輝きを持つハ長調で、形而上学的な力を感じさせ、圧倒的な偉大なフィナーレです。しかしこれも私たちが聴いて偉大だと思うのであって、ブルックナーがそこに勝利、救済、といった理念を盛り込んだわけではないのです。

まして、ブルックナーを悲劇の主人公に仕立て上げようとしても、彼の生涯のどこを探してもそこまでの葛藤は見つからないし、そもそも彼は運命に逆らうようなことをしていない。彼の音楽には激しい内面的なドラマが渦巻いていることが聴き取れるのですが、その原因となる何ものかを彼個人の性格から見つけ出すことはできないのです。
聴き手に様々なドラマを呼び起こす音楽を創造している間、彼の内面でふつふつと沸き立つものがあったのか、もしあったとしてそれがどの程度の規模であったのか、全くわかりません。すべては彼の内面の無意識の奥底の暗い中で起きていて、彼の意識の表面にまでは達していないように思われます。

〔(下)に続く〕
 
(聞き手:東京シティ・フィル事務局)


 

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東京シティ・フィル ブルックナー交響曲ツィクルス第4回・交響曲第8番
〜第289回定期演奏会(2015/5/9)にむけて(上)

−飯守泰次郎−

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飯守泰次郎です。東京シティ・フィルの第289回定期演奏会(5/9)に向けて行われた私のインタビュー記事が、間もなく東京シティ・フィルのホームページに掲載されます。この私のホームページでもお読みいただけるように、本日より(上)(中)(下)の3回に分けて、順次掲載いたします。長文になりますが、連休中お時間の許す方はぜひご覧いただけますと嬉しく思います。

***
東京シティ・フィル ホームページ掲載インタビュー記事
第289回定期演奏会「ブルックナー交響曲ツィクルス第4回」にむけて(上)

―――飯守先生は、東京シティ・フィルとワーグナーの楽劇を演奏した一連の「オーケストラル・オペラ」の経験が、ブルックナーの響きを確立する上で役に立った、と前回のブルックナー・ツィクルス(2014年)のインタビューでおっしゃっていました。
昨秋から飯守先生は、新国立劇場で、『パルジファル』(2014年10月)、『さまよえるオランダ人』(2015年1月)と、ワーグナー2作品の公演を指揮されました。長期間にわたってワーグナーのスコアと取り組まれて、今回ブルックナーを指揮されるにあたり、両者のスコアからどのようなことを感じていらっしゃるのでしょうか? 

飯守(以下I):やはりブルックナーとワーグナーの「響き」の共通性ですね。「響き」とは、具体的には、調性の扱い方と転調のしかた、半音階の使い方、分厚いオーケストレーションと楽器の扱い方などであり、二人の作曲家は非常に似た傾向があって、まさに後期ロマン派的なのです。

また、響きだけでなく、作品が長大である点も類似しているのですが、一方で大きく違う点があります。
ワーグナーが徹頭徹尾、劇音楽(オペラ、楽劇)の作曲家であって、彼独特の終末思想、救済思想といったものを音楽で表現して劇的な展開をみせたのに対し、ブルックナーは全く対照的に、純粋音楽にとどまったという点です。

純粋音楽とは、ひとことでいえば、古典的な精神に基づいて音楽それのみで成り立っている、純粋に抽象的な音楽のことです。
近代から現代に向かった当時、ワーグナー、R.シュトラウスなどの後期ロマン派は、劇音楽、標題音楽、民族音楽といった方向に突き進みました。しかし、ブルックナーは全く違う方向を目指していました。
ブルックナーの音楽は、ハイドン、モーツァルトの古典派の流れに連なる純粋音楽であり、精神性の表現なのです。

そもそも、ワーグナーに代表される劇音楽への傾向を促した端緒は、やはりベートーヴェンです。でもベートーヴェン自身は古典派の時代で、まだ純粋音楽の世界でした。ベートーヴェンからブラームスに進むにつれて表現はより劇的になってゆきます。その間のメンデルスゾーンは、純粋音楽にとどまりながらもロマン派的な方向を推し進めました。シューマンやマーラーは、心理学的な方向を追求し、人間の病的ともいえる心理の奥まで到達しました。

そのような時代にあって、ブルックナーはあくまで純粋音楽にとどまり、長大な交響曲を書き続けたのです。中でも交響曲第8番は一番長く、内容も最も深く宗教的であり、演奏するのも非常に困難です。

ブルックナーの交響曲のどの楽章をとっても、この音楽が目に見えるかたちで何かを表現している、と言い切ることはできませんね。やはり、精神的な音楽というのは言葉で表すことができないのです。一方、ワーグナーの、たとえば「ワルキューレの騎行」であればワルキューレが天馬に乗って飛び交う様子が、また「ジークフリートの葬送」であれば英雄の遺体を運ぶ葬列が、ありありと目に浮かんできます。

このようにブルックナーとワーグナーは、非常に似通った響きとハーモニーを使いながら、全然違う世界を扱っているのです。

―――先生のおっしゃる、ブルックナーの音楽の精神性とは何なのでしょうか。

I:ブルックナーがワーグナーと大きく異なるもうひとつの点として、ブルックナーが敬虔なカトリック信者でオルガニストであり、音楽の内容としても宗教音楽にとどまったということです。

ブルックナーは、40歳になって突然、交響曲を書き始めました。それまで彼は、長い間、ザンクトフローリアンで教会のオルガニストとして演奏し、祈る、という単純な生活を積み重ねていて、作曲家としてのキャリアには縁がありませんでした。
しかし、その積み重ねこそが素晴らしいことだったのです。それから交響曲を書き始めたことが、彼の創作に幸いしたのでしょう。

ブルックナーは、作曲するとき、意識していたかどうかわかりませんが、いつも、神と祈りとともにありました。彼の毎日の中にごく自然に祈りがあって、弟子のレッスン中でも教会の鐘が聞こえてくると中断してひざまずいて祈ったといいます。彼の信仰は、教会の良き信者として意識的に自分を高めていく、というような次元とは異なり、ごく自然に神を信じるナイーヴな人間だったのです。
神と深くかかわる一方で、彼は世間とかかわることは下手で、俗世から遊離していました。

つまり、ブルックナーの音楽の精神性とは、極端な言い方をすればやはり、人間と、神、つまり人間以上の存在とのかかわり、ということでしょうか。
これは私たちの現代にもそのまま通じることで、人間はなぜ肉体を持ってこの世に生まれるのか、人類はこの先どうなるのか……私たちの存在と社会は、大変な問題を抱えています。
しかし、忘れてはならないこと、全世界に呼び掛けるべきことは、人間の精神の中に人間以上の存在がある、ということです。宇宙に漂う精神性とでもいうべきか、「魂」、「仏」……いろいろな言葉で表現されますが、とにかく肉体を持つ私たち人間以上の存在がある、ということは明らかだと私は考えています。
そしてブルックナーは、そのような存在である神と、人間とのかかわりにおいて、作曲をしていたのです。

もっとも、ブルックナー自身はおそらく、そのような創作の根底で精神性には全く無頓着な人でしたし、作品でどのような理念を表現するか、という意識もありませんでした。
これが例えばベートーヴェンならば、「苦悩を通して歓喜へ」という明確な理念と意志があって作曲しているのですが。ブルックナーは、作曲家として社会に自分をアピールすることにさえ無頓着で、ただただ作曲に打ち込んでいたのです。

〔(中)に続く〕

 
(聞き手:東京シティ・フィル事務局)


 

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関西フィルハーモニー管弦楽団第264回定期演奏会
メンデルスゾーン『聖パウロ』 (2015/4/29)によせて

−飯守泰次郎−

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飯守泰次郎です。4/29は関西フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会で、メンデルスゾーンのオラトリオ『聖パウロ』を指揮します。

メンデルスゾーンは、『エリア』と『聖パウロ』という2曲の大規模なオラトリオを残しています。
『エリア』に比べると『聖パウロ』は演奏される機会は多くありませんが、力強く英雄的に伝道に突き進んだパウロという人物を題材に、「信じる」ことをめぐる人々の心の動きを生き生きと表現しており、メンデルスゾーンの情熱的な信仰が非常にストレートに感じられる素晴らしい作品です。
一昨年に発足して発展してきた関西フィルハーモニー合唱団と、久しぶりに共演できることを、嬉しく思います。

関西フィルハーモニー合唱団と
関西フィルハーモニー合唱団と

第1部は、聖人ステファノ(テノール)を迫害する側であったサウロ(バス。後のパウロその人)が、奇跡を経験して悔い改めるまでが、ソプラノやアルトのソロと合唱を交えて描かれます。

第2部では、悔い改めたパウロ(バス)が、迫害されながらも、志を同じくする使徒(テノール)とともに力強く布教を行う様子が、ソプラノ・ソロや合唱とともに歌われます。最後は神とパウロを称えて、全曲をしめくくります。
当時の人々の生き様がありありと描かれ、信仰の素晴らしさと、憎しみの恐ろしさが、劇的なコントラストをなしています。

たしかに『聖パウロ』のあらすじはやや複雑で、題名のパウロがなかなか登場しないことや、パウロが悔い改める前の第1部では「サウロ」という別の名前であること、パウロ以外にも何人かの聖人の名がかわるがわる出てきてテノールが様々な役割を務めることなどから、わかりにくいという印象を与えるのかもしれません。
しかし、信仰の持ち方の違いが恐ろしい憎しみを生む、というのはまさに現代も変わらず、私たちが直面している問題そのものです。 登場人物や話の展開を把握していなくても、1曲1曲がどれも非常に素晴らしい音楽なので、ただただ聴いていただいて内容を感じ取っていただければと思います。

関西フィル練習場にて
関西フィル練習場にて

ザ・シンフォニーホールで、皆さまのお越しをお待ちしております。

 
飯守泰次郎

 

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ホームページをご覧の皆様へ
静岡交響楽団第57回定期演奏会
“ドイツ音楽の神髄”(2015/4/18)によせて

−飯守泰次郎−

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飯守泰次郎です。4/18は、静岡市清水文化会館のマリナート中ホールで、静岡交響楽団の定期演奏会を指揮いたします。静岡交響楽団との共演は今回が初めてです。

プログラムは、ワーグナーの『ニュルンベルグのマイスタージンガー』第1幕への前奏曲、次に金子三勇士さんをお迎えしてリストのピアノ協奏曲第1番変ホ長調、休憩をはさんでブラームスの交響曲第4番という、まさに「ドイツ音楽の神髄」というタイトル通りのコンサートです。

静岡交響楽団は、とても熱のこもった演奏をするオーケストラで、音楽をする喜びが非常に生き生きと感じられます。リハーサルを重ねるにしたがってどんどん良い音に変化していくので、私もとてもやりがいがあります。
静岡は海の幸に恵まれ、富士山も大変美しく、このような土地柄が団員の皆さんの豊かな心とも通じている気がいたします。
さらに、静岡市清水文化会館マリナート中ホールが大変素晴らしい、美しい響きをもつホールで、演奏する喜びもひとしおです。
皆様と清水でお会いできますことを嬉しく思い、マリナート中ホールでお待ちしております。
 

飯守泰次郎

 
 
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