記事:2008年
     

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批評:読売新聞2008年10月7日夕刊
トリスタンとイゾルデ「ドラマと一体 雄弁な音楽」

−音楽評論家・柴辻純子−

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東京シティ・フィルが常任指揮者の飯守泰次郎と2000年から取り組んできた「オーケストラル・オペラ」。その7作目としてワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」が上演された。

オーケストラを舞台にのせ、その後方を小高くして歌手が簡単な演技をしながら歌うセミ・ステージ形式の上演で、背景には暗示的な映像が映し出された。

飯守の指揮は、第1幕前奏曲のうつろう響きから緊張の糸が張り詰める。官能的な音楽も情感に流されず、複雑に絡み合うモチーフが音の波間に明瞭に浮かんだ。

抑制をきかせ、歌手とのバランスを考えた音楽作りは、長年の積み重ねでオーケストラにも浸透している。正味4時間余の全曲をよく持ちこたえ、特に第1幕後半や第3幕前半の集中力は凄まじく、音楽とドラマは一体となり、雄弁に語る音楽は感動的だった。

トリスタン役の成田勝美は若々しい声で難役をこなし、イゾルデ役の緑川まりも、弱音から音量を増していく情感を込めた表現はお手のもの。とはいえ、誰もが完璧に歌える役柄ではない。緑川の高音は万全ではなく、第3幕のトリスタンの絶唱も成田の声の表情はやや単調に思われた。

一方、クルヴェナール役の島村武男が第3幕でトリスタンへの忠誠を示す、力強く輝かしい歌は心を打った。また関西を拠点に活躍するブランゲーネ役の福原寿美枝は、中音域の豊かな音色と高音でも声が伸び、その美しい歌唱は耳に残る。

昨今日本では数多くのオペラが上演されるが、この公演には豪華な舞台装置も、海外から歌手の招聘もない。それでも飯守の強い求心力のもと、地道に時間をかけて作り上げた充実の舞台は、記憶に残るワーグナー上演だったといえよう。

−9月21日、東京・住吉、ティアラこうとう

 

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批評:読売新聞2008年3月4日夕刊
ワルキューレ(東京二期会)「ドラマ際立つ 絶妙な間合い」

−音楽評論家・三宅幸夫−

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その場にいるはずのない人物を舞台に登場させる。昨今よくみる手法だが、このたび東京二期会のワーグナー「ワルキューレ」を演出した新鋭ジョエル・ローウェルスは、これを前面に押し出してきた。


なにしろ幼少時の題名役ブリュンヒルデまで出てくるのだから、なかなか目が離せない。たしかに台本を読み込んでいれば、謎解きの面白さも倍加するというものだが、そもそもワーグナーが語らずにおいたこと、あるいは暗示するにとどめおいたことを白日のもとにさらすのは、いかにも味気ない。

この演出家の美点は、むしろ照明が刻々と変化する舞台美術にあるのではないか。初日、双子の兄妹ジークムント(成田勝美)とジークリンデ(橋爪ゆか)の道行きでは、背景に左から右へと「動く森」が投影され、逃避行のあわただしさをみごと加速してみせた。

さらに何よりもありがたいのは二重子音のたたみかけなど、歌い手のドイツ語が格段の成長をとげていることだ。それがあるからこそ、主神ヴォータン(小森輝彦)の遠大な構想が妻フリッカ(小山由美、拍手!)の介入によってあっけなく崩れ去る、あの夫婦対決が際立つというものだ。

とくに主神が吐き捨てるように発する「どうしろというのだ?」と、つづく「災いの和音」の絶妙な間合い。こうした言葉も音楽も切りつめられたドラマ急転の一瞬を取り逃がさないのは、やはり飯守泰次郎の指揮あってのことだろう。

なお最終日、のびやかにして芯の強いジークリンデ(増田のり子)を筆頭に、もう一組のキャストも大健闘。初日はおっかなびっくりだったオーケストラ(東フィル)も、ここでは腰を据えて奥行きのある音響空間を体現する。
日本人によるワーグナー上演も、とうとうここまできたか。

−2月20、24日、上野・東京文化会館

 

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批評:朝日新聞2008年10月17日夕刊
飯守泰次郎指揮、関西フィル「大澤作品 自由闊達な洗練」

−岡田暁生・音楽学者−

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飯守泰次郎指揮の関西フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会(8日、大阪のザ・シンフォニーホール)は、それだけでコンサートのメーンディッシュになるような「目玉」が前半と後半にそれぞれ一つずつ。一つはフランスの名匠オーギュスタン・デュメイのバイオリン・ソロ。もう一つが、最近急速に脚光を浴びるようになった大澤壽人(1907〜53)の交響曲第2番。

デュメイが弾いたのはシューマン「詩曲」およびラベル「ツィガーヌ」。堂々たる体躯から繰り出される音楽は、特別なことなど何もしていないのに、すべてが圧倒的な存在感をもって鳴り響く。児戯のように楽々と、そして豪快に、しかし品よく朗らかにやってのけるのだ。まるでコンサートの締めくくりのような万雷の喝采。

後半の大澤の交響曲は、35年にパリで初演され、イベールやオネゲルからも絶賛されたが、その後まったく忘れ去られていたもの。確かにこれは驚異の作品だ。完全に消化されている新古典主義風の作風をベースに、しゃれたジャズ風のイディオムをちりばめ、さりげない日本的な響きを手際よく添える。だが大澤作品の真のすごみは、この自由闊達な洗練が、独特の硬質な苦渋の表現と結びついている点にあるように思う。

実際この相当に大規模な交響曲は、新古典主義にありがちなシンフォニエッタの枠を完全に超えている。とりわけ強烈な印象を残すのは、対位法的な彫り込みの尋常ではない密度。その厳格で仮借ない響きは、クシェネクやオネゲルを連想させる。飯守の棒はこの難曲を、その精神的内容まで含め、完全に手中に収めていた。この希代の名作が一日も早く日本のオーケストラの中心レパートリーとして定着することを祈る。


 

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批評:朝日新聞2008年5月9日夕刊
雄大さ生んだ「攻防戦」
〜フランク・ブラレイ&飯守泰次郎指揮NHK交響楽団〜
−音楽評論家 長木誠司−

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NHK交響楽団のオーチャード定期は、今回はベートーベンのピアノ協奏曲第4番と交響曲第3番「英雄」。フランス生まれで今年40歳のピアニスト、フランク・ブラレイと、久々にN響を振る飯守泰次郎の共演である(1日、東京・オーチャードホール)。

ブラレイは独演のときと変わらず、ベートーベンであろうと、そこにオーケストラがいようとかまわずに、力みなく淡々と楽器に向かう。気合を入れるなどもってのほか。鼻母音のようにペダルで和音を微妙に重ねながら、しずしずと曲を奏で始めると、音楽がふんわりと立ち上る。どこに力点を置くというわけでもない。そのくせ、オーケストラと合わせる時は常にやや前倒し。ドイツ仕込みの飯守とは水と油のような印象で、第1楽章などは、危なっかしくて素直に楽しめない。ピアノの一人舞台的な第2楽章、ソロとオーケストラが同期しやすい第3楽章で、ようやく両者は同じ時空間に居場所を見つけたようだった。

この日の白眉はむしろ「英雄」。今風にスマートとは言えない飯守の指揮だが、人形の操り師のようにオーケストラを意のままに動かす。小さな一振りに木管が軽やかに応じ、腕の素早い動きは切り込みの深いフレーズに直結、上半身の急転は弦楽器群の重々しい音色に即座に反映する。体全体がアーティキュレーションのようで、オケがこんなに反応するのなら、指揮稼業はすこぶる楽しかろう。 でも、飯守は大まじめで仁王立ち。鬼神のようにキューを出しまくっては壮絶な音楽を引き出す。N響もいつになく立派だ。果てしない攻防戦から、両者にも、聴衆にも幸福な時間が紡がれ、稀有雄大な音楽が会場を満たした。

このコンビで演奏会が組まれたら、ぜひまた行こう。


 

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批評:日本経済新聞2008年4月8日夕刊(関西版)
関西フィル第200回定期演奏会「ワーグナー 端的で晴朗に」
−音楽評論家 小石忠男−

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関西フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会が第二百回(3月28日、大阪のザ・シンフォニーホール)を迎え、記念に常任指揮者、飯守泰次郎がもっとも得意とするワーグナーの抜粋が組まれた。独唱者にソプラノの緑川まりとバリトンの三原剛を起用、楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」、歌劇「タンホイザー」「ローエングリン」、楽劇「ラインの黄金」「ワルキューレ」「神々の黄昏」から全十曲が演奏された。

正規の団員に客演奏者三十八人を加え、ハープ四人、ホルン九人という壮観。冒頭の「マイスタージンガー」前奏曲では指揮者も楽団もいささか興奮気味となり、響きが刺激的になったが、とにかく高揚する気分が凄まじい。 「夕星の歌」を歌った三原にはさらなる流暢さが欲しいが、「ローエングリン」の「エルザの夢」は、緑川が緻密な歌唱を展開、続く「第3幕への前奏曲」でオーケストラは本来の透徹した音色を取り戻した。

とはいえ、この夜は後半の「ニーベルングの指環」からの五曲が聴きものとなった。飯守は旧時代の指揮者と異なり、ワーグナーに端的な表現を求め、粘った表情や誇張はまったくない。新鮮な感受性で、大時代的な曲も晴朗に演奏した。もちろん「ラインの黄金」の「ヴァルハラ城への神々の入城」では劇性が直截に描かれ、「ヴォータンの別れと魔の炎の音楽」は三原と共にゆたかな感情を波立たせた。

さらに「ジークフリートの葬送行進曲」では、飯守の共感のすべてを解放したような名演を展開、緑川も「ブリュンヒルデの自己犠牲と終曲」で切実な感情を表明した。これらはわが国でも最高水準のワーグナー演奏と評価したい。


 

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オペラ公演プレビュー
飯守=東京二期会の「ワルキューレ」が還ってくる!!
〜東京二期会「ワルキューレ」公演への期待〜 横島 浩
−「音楽現代」2008年2月号より一部転載−

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2/11のリハーサルにて
演出家ジョエル・ローウェル氏と
2008年早春の候、東京二期会のオペラ公演の演目は、ワーグナーの楽劇「ワルキューレ」だ。わが国随一のワーグナー指揮者・飯守泰次郎率いる東京フィルハーモニー交響楽団を迎えての「ワルキューレ」。そう、飯守&二期会の「ワルキューレ」が還ってくるのだ!

ドイツの中世叙事詩に基づく空想的で神秘的な内容を持つこの作品の、人物関係の複雑性と、その裏に潜む大胆かつ細やかな感情の動きを演じることは、従来わが国の演奏家では難しいとされていた。また、いつ終わるともわからない長大な無限旋律に立ち向かうだけの体力も備わっていなければならない。欧米人に頼らなければ成り立たせる術を持たなかったわが国の楽壇も、1972年に至ってついに全て日本人による初演という壮挙に立ち会うことができたのである。36年前、干支でいうとちょうど3周り前に当たるその年の日本人初演者とは、飯守泰次郎と二期会メンバーたちであった。

本格的な日本人「ワルキューレ」演奏草創期以前から、飯守は海外においての修行期にワーグナーと密接につながっている。

桐朋学園で齋藤秀雄に指揮を師事してバトンテクニックを学んだ若き飯守は、1962年卒業後すぐに藤原歌劇団の公演で指揮を務めてデビュー。演目であったプッチーニの「修道女アンジェリカ」は神秘的で宗教的な内容であるが、緊迫した心理劇であり地味に音楽的な工夫が張り巡らされた作品だ。指揮者として駆け出しと言えるころから、人間心理の複雑さや神話的神秘性に取り組んでいたことは注目するに値する。

1966年には留学先のアメリカでエントリーしたミトロプーロス国際指揮者コンクールに入賞。この時の演奏がワーグナーの孫にあたるフリーデリンド・ワーグナーから支持されてバイロイトに招かれ、音楽祭ではマスタークラスに参加。音楽祭総監督のヴォルフガング・ワーグナーの兄ヴィーラントが演出した数々の楽劇(ベーム指揮)に触れて、ワーグナー演奏の真髄を堪能。その後練習ピアニストとして、また急遽副指揮者として採用されるなど、ワーグナー演奏の現場に深く立ち入っていたのである。

その後ブレーメン歌劇場専属指揮者となり数々のワーグナー作品を含むオペラを指揮するなどの活躍をしたのち、1969年には第1回カラヤン国際指揮者コンクールで第4位入賞。翌年にはマンハイム市立歌劇場で研鑽を積み1971年には日本人初となる、バイロイト音楽祭音楽助手に就任。これ以降ほとんど毎年聖地バイロイトでワーグナー楽劇の様々な名演の数々にアシスタントとして関わっていくのである。

バイロイトで信頼を得た飯守は先に述べた日本人の手による「ワルキューレ」初演の快挙をものにしたのであるが、実は日本への凱旋帰国公演の直前に、スペインのバルセロナ歌劇場で「ワルキューレ」「さまよえるオランダ人」を指揮しており、この公演に対しバルセロナの地では「シーズン最高指揮者賞」という名誉を得ていたのである。日本公演では若き飯守は「芸術選奨文部大臣新人賞」を得た。その後の活躍はオペラにオケにと世界を飛び回った彼であるが、1976年には、あの伝説的なバイロイト音楽祭100年祭における、ブーレーズ指揮シェロー演出「リング」の音楽助手チーフをジェフリー・テイトと共に務めたのである。

これ以上飯守とワーグナーの経歴上の関わりを語ってもしょうがないであろう。その深さは語りつくせないのである。ワーグナー独自の具体的な意味を持った指導動機を対位法的に繰り広げる、その整理と性格付けの見事さはベートーヴェン交響曲などの純作品でもお馴染みであり、ワーグナー作品だけではなく幅広い作風にも順応する力も見せている。

〔中略〕

歌手は4回公演で2回の入れ替えがあるので、それぞれ飯守が歌手の思いを取り込みながら纏め上げていくのか注目。そう、2回は会場に足を運んで初めて絶頂期の飯守ワーグナーの凄さを知ることになるのだ。


 

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円熟・飯守泰次郎氏のワーグナー
−東京二期会プレスリリースより転載−

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今回の上演にあたり、特筆すべきは指揮者に飯守泰次郎氏を迎える事です。氏は、『リング』全4作品ツィクルスを成功させるなどで平成15年度芸術選奨文部科学大臣賞を受賞、2004年紫綬褒章を受章し、わが国楽壇ではワーグナー音楽の最高の体現者として衆目の一致する所です。弊会公演でも1970年代に登場以来、諸作品で実績をあげています。東京二期会が初めて上演した『ワルキューレ』の指揮も当時新進気鋭たる飯守氏でした。現在は円熟が最高度に達し、日本中のファンが、彼がワーグナーを指揮するところ、どこへでも駆けつける現象が起きています。飯守氏の指揮で楽劇を本格上演する事は、ファンにとって大いなる朗報であるばかりでなく、時期を得た意義深いものとなるでしょう。



 

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OPERA interview 飯守泰次郎
−新国立劇場・情報誌「The Atre」2007年10月号より転載− 

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三回目となる新国立劇場招聘公演は、関西二期会によるR・シュトラウス&ホフマンスタールのオペラの真骨頂「ナクソス島のアリアドネ」。ヴォルフガング・ワーグナーをして「Kapellmeister(名指揮者)と呼ぶにふさわしい」と言わしめた飯守泰次郎のもと、関西二期会の精鋭たちの名演が待ち遠しい。

 
「ナクソス島のアリアドネ」は世の中のことすべてが描かれた奇跡的な傑作  
――関西二期会の公演にはいつ頃から携わっていますか?

2000年に関西二期会から初めてお声をかけていただきました。それが、ワーグナーの「パルジファル」だったんです。「パルジファル」はワーグナーの最後の楽劇で、非常に哲学的で宗教的ですから、こういう作品を日本で上演し、指揮すること自体が僕にとって大役で、しかも関西二期会との初めての公演ですから、大分危惧したんです。けれどもソリストの方々も、事務局の方々も非常によく協力してくださって、結果は驚くくらい素晴らしいものでした。そのとき、関西二期会のオペラ団体としての力の強さ、幅の広さに感動いたしました。関西の人柄、キャラクターの強さがソリストにも表れていて、とても表現力の豊かな団体だと思います。

――今回は「ナクソス島のアリアドネ」です。作品の魅力を教えてください。

このオペラには、世の中のすべての要素が凝縮されています。悲劇と喜劇、理想と現実、善と悪、愛と絶望。人生には深い哲学、宗教と信仰、愛が必要ですけれど、それだけでは我々は生きていけない。やはり他愛ない笑いと茶番が必要なんです。それをすべて融合して表現したのが、このオペラの魅力だと思います。

作曲家が「ナクソス島のアリアドネ」を上演しようとするものの、パーティの主催者の大富豪はコメディア・デラルテ(古いイタリアの即興喜劇役者)も雇い、お笑い組とシリアス組とのせめぎ合いが起こります。こういう人間社会にあることが、実にいきいきと描かれています。

「カルメン」「椿姫」「蝶々夫人」のように絶対な人気を持つ作品ではないですが、このオペラが一番好きだという人が意外と多いのです。シュトラウスの大家であるカール・ベームもそうですし、シュトラウス自身もそうです。そして僕も大好きです。

――世の中のすべての要素を描いたオペラですか。

一番重要な描写は愛だと思います。それが、深いものから浅いものまで、すべてがこの作品に凝縮されています。愛には、動物的な愛、人間的な愛、神聖な美しい精神的な愛の三つの水準がありますが、アリアドネの愛は一番高貴な精神的な愛です。テーセウスに捨てられたアリアドネは、絶望しきって打ちひしがれて、ナクソス島の洞窟に閉じこもってしまいます。そして死神のヘルメスを待ち続けるのです。そこに現れたのが、ツィルツェの邪悪な誘惑に屈しなかったバッカスなのです。そこで二人は一番深い精神的な愛に到達するんです。

コメディア・デラルテのツェルビネッタは、アリアドネを心から救おうとしているけれども、彼女はアリアドネのような深い愛情を理解できないんです。アリアドネもツェルビネッタのように世俗的には考えられない。この二つはずっと並行線をたどります。

実はこれと似ているのがモーツァルトの「魔笛」です。ここでは愛は、モノスタトスと夜の女王、パパゲーノとパパゲーナ、タミーノとパミーナの三つの水準になっています。また、「トリスタンとイゾルデ」のイゾルデも、性格の違いこそあるものの、アリアドネと共通するところがあります。高貴な愛。我々はこれをいつも求めて生きたい。ですので、僕は、アリアドネとバッカスの愛情について、とても強調したいです。人によっては「ナクソス島のツェルビネッタ」のほうが魅力がある、と言う人もいますが、アリアドネとバッカスの愛の成就が一番強調されるべきだと思います。

――悲劇と喜劇が同居しているんですね。

そうです。そしておもしろいことに、作曲家は、物事は変容する、という台詞をしつこく言います。つまり、アリアドネは死を、バッカスは敵を期待していたのが変化していく。そして作曲家は「ナクソス島のアリアドネ」だけを書こうと思ったのに、とんでもない邪魔が入る。そうやって物事が変わるのが人生なんだということを、ものすごく強調しているんですね。このオペラを通して、邪魔や苦労を超えたところで素晴らしい作品ができる、ということもシュトラウスは言いたいんだと思います。

それからもうひとつ重要なのは、台本を書いたホフマンスタールの存在です。「ナクソス島のアリアドネ」は、ホフマンスタールの深さと、シュトラウスの天才的な上手さ、すべてを混ぜ合わせた、二人の本当の共同作品です。しかもオーケストラはたったの三十六人。それで音楽的に深いところから、おふざけのドタバタまで表現するのですから、見事としか言いようがありません。

 
刺激の元はバイロイト ベームの言葉を心に刻み 指揮活動をする  
――ところで、ヴォルフガング・ワーグナーさんが飯守さんのことを絶賛されていますが、 いつ頃から一緒に仕事をしているのですか?

1966年にバイロイトのマスタークラスに行ったのが最初で、イタリア・オペラとドイツのロマン派の楽劇の違いを徹底的に教わりました。そのとき祝祭劇場の公演や練習をたくさん見せていただきました。そのとき助手のひとりが病気になり、偶然にも僕が舞台裏のキュー出しや練習ピアノを弾くことになったんです。総監督のヴォルフガング・ワーグナーは、隠れた才能を見つけるのが得意な人なんですよ。それから三年後に再びバイロイトに応募し、今度は音楽助手を務めることになりました。ベームやヨッフム、シュタイン、ブーレーズのアシスタントをして二十年余り……、これは素晴らしい勉強になりました。

――たくさんのことを得たのでしょうね。

そうですね。バイロイト独自の厳しいやり方で、言うなれば、こき使われました。これがよかったです。1日中ステージの表裏なんでもすべてに関わりました。

ベームのアシスタントをすれば、当然一緒にお茶を飲むこともあります。そのときにこう言われたんです。「君はなかなかよくやっているけど、モーツァルトはちゃんとできるの?モーツァルトができた上でワーグナーができて初めて、立派な指揮者と言えるんだよ」。その言葉を今でもとても大切にしています。そして、バイロイトが刺激になって、イタリア・オペラやオペレッタ、古楽器の演奏も、すごく勉強しました。僕は、ワーグナーだけに惚れたわけじゃないんです。バイロイトにいろんなものが集まってくる。だからバイロイトに行った訳なのです。

――最後に、読者にメッセージを。

「ナクソス島のアリアドネ」は、こう観なきゃいけないということはありませんし、全部をほおばる必要もありません。シュトラウスとホフマンスタールが創りあげた悲劇と喜劇の奇跡的な混ぜ合わせを、ひとりひとりが好きなやり方で自由に楽しんでいただくのが、一番いいんじゃないかと思います。あまり先入観は持たず、お好きなところに注意を向けて、大いに笑って泣いてください。


 
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