記事:2012年
     

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記事:読売新聞2012年10月2日夕刊
「二期会『パルジファル』〜健闘の日本勢キャスト」
−舩木篤也

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二期会創立60周年記念公演は、ワーグナーの長大な「パルジファル」。バルセロナ・リセウ大劇場とチューリッヒ歌劇場との共同制作だが、出演はA(9月16日)・B(同17日)キャストとも日本勢で、彼らの健闘をこそ讃えたい。

世の欲望と罪の連関を突然に悟る、無垢なる自然児――この難しい題名役を、福井敬(A)がいつもの朗々たる歌唱を御して多角的に描けば、悟りを口づけで引き起こすクンドリ役が、光のごとき声で「パルジファル!」とまっすぐに放つ。新人、田崎尚美(B)だ。言葉に難を残すも、型破りな音域のこのパートで、息遣いのなんと柔軟なこと。あるいは悩める聖杯騎士王、アムフォルタスの黒田博(A)。狂乱の場でなお一言一句が際だっていた。

だが、今回の立役者といえば、指揮の飯守泰次郎であろう。管弦楽は読売日響。

たしかに、超スローな第1幕など一種異様だが、底知れぬ憂愁が支配しており弛まない。「悲哀の動機」のバス音を深くえぐり、橋爪ゆか(クンドリA)の体当たり演技に真実味を与える。灼熱の不協和音が、片寄純也(パルジファルB)の清涼な叫びに苦悶の色を加える。転調の瞬間にはこちらも体ごと連れ去られるようで、幕切れは二期会合唱団ともども本当に沁みた。

いっぽう、クラウス・グートの演出は、題名役が騎士団を救うと独裁者になるという読み替えもの。ドイツ人らしい歴史反省路線だが、呆れたクンドリが荷物をまとめて去るというオチには苦笑した。第3幕の悔恨の音楽は何だったのか?

(音楽評論家 舩木篤也)
――9月16、17日、上野・東京文化会館。

 
 

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記事:毎日新聞2012年9月24日夕刊
「積み重ねてきた確かさ実証
 ―二期会のワーグナーの舞台神聖祭典劇≪パルジファル≫」

−評・礒山 雅(音楽評論家)−

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創立60周年を迎えた二期会が、ワーグナーの舞台神聖祭典劇≪パルジファル≫を45年ぶりに上演(13日と15〜17日、東京文化会館)。1967年の日本初演に列席した者としてはまさに隔世の感を抱く充実ぶりで、同会が積み重ねてきたものの確かさを実証した(公演監督・曽我栄子)。

ワーグナー最晩年の≪パルジファル≫は、他者の苦しみに対する「同情」の喪失を人類の堕落ととらえ、真の宗教性を復権させるべく構想された作品である。ドラマは中世の聖杯伝説を下敷きに、対立の中に和解を、苦悩の中に希望を探索しつつ進む。その全編を覆う救済への憧れを、指揮の飯守泰次郎が、なんと切実に表現したことだろう。これほどの理解と愛をもってワーグナーを正統的に指揮できる人が、いま世界にもいるだろうか。

その説得力がとりわけ大きかったのは、飯守が≪パルジファル≫のワーグナーと等しい年齢に達し、最後期の思想への共感を深めたためであろうと推測する。かつての初演オーケストラ・読売日本交響楽団が、ともに作品へと没入。玄妙な和声がみずみずしく継起し、第1、3幕における聖堂への入場場面では、痛ましくも荘厳な響きが会場を圧した。

堕罪の苦悩を強烈に、格調高く歌い出した黒田博(アムフォルタス)、悟りへの歩みを大柄に表現した福井敬(パルジファル)、明晰な語りで場を支えた小鉄和広(グルネマンツ)、対決場面に力を見せた橋爪ゆか(クンドリ)らが難役を堂々とこなし(宗教的感情と日常的喜怒哀楽の峻別が今後の課題となろうか)、二期会合唱団も内容をよく歌い込んでいた。

中世の聖城を20世紀初頭の野戦病院に設定して反戦の思想を忍ばせ、礼拝における前王と現王の対立を父と子の個人的葛藤に置き換えるなど、クラウス・グートの演出には、種々の新機軸があった。それが公演の感動を深めたと私は必ずしも思わないが、音楽に対して一定のバランスが保たれ、回り舞台の活用が空間に生動性をもたらしたことは評価できる。

 
 
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記事:朝日新聞2012年5月7日夕刊「for your Collection〜クラシック音楽」
ベートーベン:交響曲全集 飯守泰次郎(フォンテックFOCD6014=写真)
−諸石幸生−

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ベートーヴェン全集(マルケヴィチ版)

○(推薦盤)

ロシアの名指揮者マルケヴィチの校訂譜による世界初の快挙。雄弁に作品を歌い、ひもとく演奏で、緻密でありながら壮麗、しかも逞しい。指揮者の円熟と謙虚なる情熱の成果。



 
 

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記事:日本経済新聞2012年4月27日夕刊「ディスクレビュー」
飯守泰次郎指揮 ベートーベン交響曲全集

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どっしりとした演奏で、今年生誕100年の大指揮者マルケヴィチの版を使用。オケは東京シティ・フィル。このコンビは10年ほど前、ベーレンライター新版で全集を完成させている。飯守はマルケヴィチ版こそ改革者ベートーベンが意図したものを最も追求しているとの結論に達したという。マルケヴィチ自身は版の完成直後に急逝しており、これは同版による世界的に貴重な全集となる。ベートーベン演奏は日本で百花繚乱の様相だ。



 
 

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記事:朝日新聞2012年3月26日夕刊
「新国立劇場オペラ研修所公演 悲喜劇の組み合わせが魅力」
-白石美雪・音楽評論家-

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年に一度の新国立劇場オペラ研修所公演。今回はツェムリンスキーの「フィレンツェの悲劇」とラヴェルの「スペインの時」という粋な2本立て。「宿命の女」と翻弄される男たちを描いた、独仏の珍しい悲喜劇の組み合わせが魅力(9日、東京・初台の新国立劇場中劇場)。

研修所公演の楽しみは、新人発掘。つまり優れた素質を見いだすことに尽きる。ツェムリンスキーでは伊藤達人の明るいテノール。まとわりつく弦合奏から抜ける声で、若いプリンス役が似あう。シモーネ役の渋い山田大智とは好対照だ。

ラヴェルではコンセプシオン役の吉田和夏。テンポのいい対話にコケティッシュな魅力がいっぱい。でも、浮気に燃えるスペイン女よりは「ドン・ジョヴァンニ」のツェルリーナ向きかも。ゴンザルヴェ役の糸賀修平は堂に入った詩人気取り。大時計を何度も運ぶラミーロ役の西村圭市は、本物の力持ち。まっすぐな発声が心地よい。

研修生はみな健闘したが、力試し公演としては問題も。たとえば三浦安浩の演出。2作とも20世紀初頭の古都の物語に読み替え、パラレルワールドとして描く。舞台は戦争直前の漠とした不安感を映したデ・キリコの絵画「通りの神秘と憂鬱」風の広場。権力や腕力に圧迫され、奔放な官能が渦巻く息苦しい時代と結びつける。
だが、凝りすぎの設定と過剰な仕掛けは空回り。挿入されたせりふ劇は長すぎ、露骨なエロスにも辟易。新人歌手を引きたてる配慮に欠けた。

救いは飯守泰次郎の指揮。ツェムリンスキーはほの暗い楽想とR.シュトラウスばりの甘美な響きが交錯し、ラヴェルは精密さとほのかな色香が同居する秀演。絶妙な音作りで若手の歌唱をしっかりとサポートした。

 
 
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