記事:2009年
     

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記事紹介
評論家・東条碩夫氏のブログ「東条碩夫のコンサート日記」より
11・21(土)関西二期会 ベートーヴェン:「フィデリオ」

−アルカイックホール(尼崎)〜2009年11月21日付記事−

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関西フィルが舞台上の前面に配置されているので、ハテ今回はセミ・ステージ上演だったのかなと一瞬首をひねったが、序曲が終るとオーケストラがピットに沈んで行き、通常のオペラ上演の形に変ったのに納得。

第2幕途中での「レオノーレ序曲第3番」の演奏の際にもピットが上昇して、オーケストラが主役に躍り出る。このテは、欧州の歌劇場やマリインスキー劇場などでも時たま使われているらしいが、なかなか効果的だ。欲を言えば、演奏しながら上昇・下降が行なわれれば、ドラマの緊迫感が中断しなくて済むのだけれど。

その関西フィルを指揮した飯守泰次郎は、さすがの練達ぶりだ。

序曲の冒頭から、音楽が瑞々しく躍動している。惨忍な刑務所長ドン・ピツァロが登場する際の行進曲のリズムの重々しい不気味さや、第2幕冒頭のフロレスタンのアリア後半における「憧れのリズム」の波打つ高揚、それに続くレオノーレとロッコの対話の背景に流れる音楽の暗鬱な響きなど、平凡な指揮者なら無味乾燥に陥りやすいこれらの個所での飯守の音楽づくりは、まさに妙味と言っていい。決して力むことのない演奏ながら、アクセントは強く、ベートーヴェンの音楽特有のメリハリを充分に再現している。これだけ情感の豊かな音楽を聴かせる指揮者は、こんにちでは稀であろう。

関西フィルも(ホルンの頼りなさを除けば)、この指揮によく応えており、好演であった。

歌手陣では、フロレスタンを歌った小餅谷哲男が光った。時々走りすぎてオーケストラと合わなくなるのはいただけないが、不屈の囚人といった性格を感じさせる声の表現は魅力だ。

看守長ロッコを歌った橘茂は、この役にしては声が軽い(その点、22日の木川田澄は適役だろう)が、表現力においては優れたものを聴かせていた。

レオノーレの小西潤子とドン・ピツァロの花月真は、精一杯という感じだろう。ドン・フェルナンドの菊田隼平は低音が弱く、「正義の大臣」役としては存在感に欠ける。脇役だが、松原友(ヤキーノ)と高嶋優羽(マルツェリーネ)が、それぞれ役に合った良い表現を聴かせていた。
〔後略〕 

 

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批評:読売新聞2009年8月18日夕刊
飯守の指揮 楽団に一体感
−音楽評論家・安田和信−

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首都圏の管弦楽団が日替わりで登場する音楽祭の一夜で、飯守泰次郎指揮東京シティ・フィルを聴いた。本演奏会はブルックナーの交響曲第7番を取り上げ、ビギナーに配慮した当音楽祭では本格派プログラムと言える。

飯守の指揮は合奏の辻褄合わせより、場面によって変貌する音楽の性格を身体全体で楽団に伝達する。第1楽章では、アンサンブルの乱れが起きたのは惜しかったが、指揮者の気合が良い緊張感を生み出した。

第1主題の長大な旋律が、音域や和声の変化に伴って、細かい強弱やテンポの緩急を施されていったのも、緊張感の賜物である。荒々しいユニゾンが炸裂する場面で、楽団の一体感が維持されたのも同じ理由であろう。

主要な楽節と楽節の間が休止で明確に区切られることの多いブルックナーの場合、休止で緊張が緩むことも多いのだが、飯守の指揮は次の楽節への期待を聴き手に抱かせるのだ。遅めのテンポ設定がなされた前半の2楽章でも客席を引きつけることができたのは当然の結果である。

飯守の解釈は、複数の動機が同時に姿を現す際に、すべてを明確に響かせて、立体的な音響の実現にも意を払っていた。細部を曖昧にしないホールの音響特性も功を奏し、指揮者の意図は客席にも存分に伝わってきた。

個々の楽員が技巧的に向上すべき余地はあるが、楽団としてのまとまりの良さが、今回の名演を支えていたことは間違いない。

−8月11日、ミューザ川崎シンフォニーホール


 
 
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